ワンラブについて/代表のご挨拶

ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクトのルダシングワ真美です。

1997年にルワンダの首都キガリ市に義肢製作所を立ち上げ、手足に障害のある人たちに義足・装具・杖・車いすなどを製作・無償配布をしてきました。
今までにのべ12,000人の人たちを支援してきました。

ルワンダは過去に起こった大虐殺や、医療の不足、病気、また国の発展と共に増えた車による交通事故のために、手足を切断する人がたくさんいます。
手足を失った障害者は国からの保障もなく、不自由な生活を送っています。そして障害のために仕事に就くことも難しく、自立を妨げられています。

私たちは下肢障害者に自立の第一歩となる義足を提供してきました。義足を履き、行動範囲を広げることによって、孤立しがちな彼らを社会に導くことができます。義足によって、肉体的にも精神的にも前向きになることが出来ます。更には仕事に復帰することも可能となり、経済的にも自立可能となります。

【義足はオーダーメイド。それぞれの体に合わ
せて作ります。】

でも義足は一度作ったら生涯使えるわけではありません。靴と同じでいつかは古くなり、新しいものが必要になります。つまりこの活動を継続していかなくてはなりません。

1人でも多くの下肢切断者に義足をと、ずっと活動を続けていますが、まだ義足を必要としている人たちがいます。そして大人だけではなく、義足が必要な子供たちもいます。

大虐殺のあったルワンダは子供たちに未来を託しています。彼らが学校に通い、知識をつけ、ルワンダを導いていけるよう、義足を履いて学校に通うチャンスを増やそう。

大虐殺を経験した大人たちは、子供の成長に期待をかけています。しかし育ち盛りの子供たちは成長に合わせて義足を作り直さなくはいけません。

だからワンラブ・プロジェクトはいつまでも義足を提供し続けなくてはいけないのです。どうぞ義足を作りながら、ルワンダの障害者と共にルワンダを築いていけるよう、皆さまのお力をお貸しください。

ルワンダではベルギーの植民地支配によってもたらされた国民を分断する政策のために、59年から民族対立が起こり、94年には3か月間に100万人以上の人が殺される大虐殺が起こりました。地雷による四肢の切断、そして一般の家庭にある鉈や斧が武器として使われ、手足を切断されました。

現在は大虐殺も終わり、国は落ち着きを取り戻しました。そして国民を争いに導いた民族の違いをなくし、政府・国民が一丸となって国を復興させ、現在では「アフリカの奇跡」と呼ばれるようになりました。しかし手足を失った人たちは再び自分の身体を取り戻せるわけではありません。

彼らは国からの補償もなく、不自由な生活を強いられています。仕事に就く機会も少なく、町で物乞いをしている姿も見かけられます。私たちはそんな障害のある人たちに義足を届けることで、社会復帰を促しています。

ルワンダで義足を作り始めてから長い時間が経ちました。その間たくさんの人たちに義足を渡すことが出来ました。

この活動を始めて一番良かったことは何ですか?と聞かれることがあります。

もちろん義足を渡した相手が喜んで帰っていく姿を見るのは、とても嬉しいです。

でも活動を続けるにあたり本当に良かったことというと、それは「わがままな障害者がいてくれたこと」と言えるのかもしれません。

活動を始めた当初は、義足を作って渡せば、それだけで喜ばれるだろうと考えていました。しかしある男性に薄い茶色に仕上げた義足を渡したとき「これは俺の肌の色と違う」と受け取ることを拒まれました。
ただ「あげる」だけではダメなのだ、相手に気に入ってもらえるものを作って初めて活動の意味がある。そんな当たり前のことを気づかせてくれました。

だから義足を受け取り喜んで帰っていく障害者よりも、不満を伝え、自分たちのどこが不十分 なのか気づかせてくれる人の存在は、とても大切です。

活動を始めたきっかけは1人の障害のあるルワンダ人との出会いでした。89年初めて訪れたケニアで、ルワンダから民族紛争を逃れて難民として生活をしていた、今の夫と出会いました。彼は病気の治療ミスで、右足に障害があり、装具と杖を使っていました。

91年彼が来日したとき、装具が壊れてしまいました。新しい装具を作ろうと訪れた横浜の義肢製作所。職人が義足を作るその様子を見ながら、二人とも「この技術はルワンダで必ず役に立つ」と感じました。OLだった私は仕事を辞め、その義肢製作所に弟子入りし、約5年間修行の後、義肢装具士の国家資格を取りました。

1人のルワンダ人との出会い、その人に障害があったということが、この活動の根っこです。そして大虐殺の終わったルワンダに渡り、首都キガリ市に二人で義肢製作所を開きました。同時に法務省からNGOの認定を受けました。

97年の開所以来、いろいろなことがありました。ルワンダを初のパラリンピック参加に導いたり、ルワンダの「障害者の日」イベントを初めて開催したり、愛・地球博に出展したり。ルワンダやブルンジで地方の障害者を訪ねて義足を作る巡回診療も行なってきました。

私たちは政府から譲られた広い土地に義肢製作所を建て、ずっと活動を続けてきました。

その土地は低地にあり、中に川が流れています。ルワンダは2000年以降、気候変動が激しく、大雨が降ると川が溢れ、洪水の被害を5回も受けました。その都度泥水が建物の中に流れ込み、機械や材料が使い物にならなくなったり、訪れた人たちのデータや貴重な写真を失いました。

2020年ルワンダ政府は危険回避のため、その地域の住民を退去させる方針を固めました。

ある日の夕方、役人がやってきて、その場所から今すぐ出るようにと言いました。すぐに退去することはできないと伝えると、翌日ショベルカーを持ってきて、建物を強制的に撤去されました。

目の前で、自分たちがコツコツ作った建物を壊される様子を見て、途方にくれました。

【政府による強制撤去。】

このまま活動を続ける意味はあるのか。自分たちは必要とされていないのではないか。

良かれと思って続けていた活動が、なぜこんな形で壊されなくてはいけないのか。

いろいろな思いが頭に浮かんでは消えていきます。

でもルワンダには義足を必要とする人が確実にいる。その人たちがいるのであれば、私たちはこの活動を続けるべきだ。

そんな思いを多くの人が支援してくれ、22年には新しい義肢製作所を完成させ、現在は気持ちも新たに義肢製作の活動を続けています。ここでは二人のルワンダ人義肢装具士と一人の見習いが、いつも通り義足を作っています。

ガクエバさんという男性が義肢製作所を訪れました。彼は足を一本失っており、両手で杖をつきながら生活をしていました。そんな彼に「義足が手に入ったら、最初に何をしたい?」と問いました。

「そうだなぁ、わしは両手に杖を持っているから、一度もかみさんと手をつないで歩いたことがない。だから杖をつかないで歩けるようになったら、かみさんと手をつなぎたい。

そんな誰もが求めるような、些細なことでした。そして義足を履いて立ち上がった日、歩く練習をそっと影から見守っていた奥さんの手を握って、一歩二歩と前に向かって歩いて行きました。

【義手を装着した女性。お洒落をしたい気持ちが生まれました。】

あるいは年頃の若い女性。まだ子供だった頃に虐殺が起こり、鉈をもって追いかけてくる民兵に手を切り落とされてしまいました。

義手を手に入れ、彼女が最初に言った言葉は「この手にマニキュアを塗ってもいいの?」。きっとずっとお洒落をしたかったのでしょう。

彼らの求めるものはとても素朴です。そんな些細な彼らの希望がかなえられるよう、私たちはこれからも義足を作り続けます。

これからもどうか、私たちの活動を応援してください。よろしくお願いします。