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◆ルワンダ共和国・歴史:植民地以前
15世紀の終わり、中央集権化された王国が築かれました。当時のルワンダには民族はなく、ひとつの文化と言語を分け合っていました。その王国は、牛を所有する人たちの長、土地を持つ人たちの長、治安を守る軍の長によって統治されていました。
◆ルワンダ共和国・歴史:植民地時代
1885年 ベルリン会議。ルワンダはドイツ帝国統治領となった。
1899年 ドイツ領東アフリカの一部となった。
20世紀初頭 カトリックの宣教師が、布教のためにルワンダに入ってきた。
1917年 第一次世界大戦ドイツ敗北後、ベルギーが間接統治を始めた。
1935年 ベルギーは、大量虐殺のきっかけとなった身分証明書の発行を始めた。牛を10頭以上所有する人を「ツチ」、それ以下の人を「フツ」と呼んだ。
1954年 ルダヒグワ王Rudahigwa はルワンダの全面独立とベルギーの植民地支配の終結を要求した。
1959年 ルダヒグワ王、隣国ブルンジにて謎の死を遂げた。国王の死には、ベルギー政府が関与していたと言われている。ツチ族に対する、最初のジェノサイドが起こった。それに伴い、多数のツチ族が国外に逃れた。
◆ルワンダ共和国・歴史:独立後
1962年 ルワンダの独立。初代大統領はグレゴワール・カイバンダ(GregoireKayibanda)
1963年 ツチ族に対するジェノサイド。
1973年 ジュベナル・ハビャリマーナ(Juvenal Habyarimana)がカイバンダを倒し、大統領となった。政府によるツチ族迫害運動が始まった。ツチ族に対するジェノサイド。
1975年 ツチ族に対するジェノサイド。
1979年 Rwandese Alliance for National Unity (RANU)が結成された。この組織は、ジェノサイドを避けるために、ケニアに逃れていたルワンダ人によって結成され、ルワンダ難民の問題を解決すること、ルワンダの独裁政治に対し戦うことを目的として作られた。
1987年 RANU がルワンダ愛国戦線(Rwanda Patriotic Front-RPF)となった。RPF は別名INKOTANYI―疲れを知らない者と呼ばれる。
1990年 RPF は武力闘争を始めた。
1993年 タンザニアのアリューシャで、RPF とルワンダ政府は、停戦のための和平協定を結んだ。しかしルワンダ政府は、この協定とは裏腹に、民兵Interahamwe のトレーニングをし、大量虐殺に向けての準備を進めていった。
1994年 ハビャリマーナ大統領の乗った飛行機が撃墜され、その数十分後にはルワンダ国内の道路がロードブロックされ、ジェノサイドが始まった。隣人同士が殺し合う、この殺戮は、ラジオによって扇動され、ツチ族とフツ族穏健派に対する憎しみが一気に広がった。約3ヶ月の間に、100万人以上の人たちが殺された。
1994年7月 RPF 首都を陥落。同時に、大量のフツ族や暫定政府のメンバーが、ジェノサイドの報復を恐れ、コンゴ・タンザニアなどに逃げた。新政府が発足され、パステール・ビジムングPasteur Bizimunguが大統領となり、RPF を率いていたポール・カガメPaul Kagame は、副大統領兼国防省大臣となった。
1996年 ルワンダ語とフランス語に加え、英語が公用語となった。
2000年 ビジムング大統領が大統領を辞任。ポール・カガメ氏が大統領となった。
2000年12月 国旗・国家が新しく制定された。
2003年8月 94年の虐殺以来初めての大統領選挙。ポール・カガメ氏が大統領に選ばれた。
2005年 1つの市・11の県から成っていた国が、1つの市と4つの県にまとまった。
2010年 ポール・カガメ氏、大統領再選。

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◆ルワンダについて