Mulindi Japan One Love Project

◆ワンラブ・プロジェクトができるまで:挨拶にかえて
ワンラブ
この活動はひとつの出会いから始まりました。紛争を避け、難民となって国を離れたルワンダ人と、仕事に疲れ、日本を離れてスワヒリ語を学びに行った日本人が、アフリカのケニアで出会ったことがきっかけです。
幼い頃、病気の治療ミスで片足が不自由になったガテラは、ルワンダの自然・生活そして紛争のことや障害者の様子、さらに国が平和になったら、障害者の役に立つことをしたいと語りました。真美は日本へ戻ると、しばらくしてルワンダの紛争が悪化したことを知り、ガテラが少しでも平和に暮らせるよう、日本に呼びました。日本に着いてしばらくした頃、ガテラの装具が壊れてしまい、一軒の義肢製作所を訪ね、作業の様子を見ながら二人は感じました。

「この技術はルワンダで必ず役に立つ。虐殺や地雷の被害にあった人たちや障害者をもつ人たちに、義足を作りたい」 この思いを元に「ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」は生まれました。

その昔、ルワンダ人は農業や牧畜・陶芸などを営みながら、平和に暮らしていました。19世紀の終わり、ドイツ、そしてベルギー人が入り込み、ルワンダの人たちを支配するために、国民を3つの民族に分けてしまいました。当時ルワンダには学校はなく、宗教を教えながら、学校を作り、若い人たちに民族を教え込みました。さらに身分証明書を作り、民族名を書くようにしました。
そうすることによって、それぞれが違う人間であるということを、人々の心に植え付けたのです。この時に、国民を分けるという教育が、子供たちになされていなかったら、身分証明書に民族名が書かれていなかったら、ルワンダの人たちは平和な暮らしを続けていたことでしょう。間違った政治によって、ルワンダの人たちは歴史を変えられてしまったのです。

1994年の大虐殺では、わずか3ヶ月の間に100万人以上の罪もない人たちが殺され、紛争や地雷のために、たくさんの人が障害を負ってしまいました。私たち、ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクトは、傷つきながらも虐殺の時代を生き延びることができた人たちを支援するために始まりました。
大虐殺後のルワンダは、すべてが壊され、ゼロからのスタートでした。30年以上続いた紛争も、1994年7月には終結し、ワンラブは首都キガリ市に小さな工房を構え、義足を作り始めました。その後、ルワンダ政府から土地を譲り受け、無償で義肢装具を製作・配布するための義肢製作所・職業訓練校・レストラン・ゲストハウスなどを建設しました。2007年からは隣の国ブルンジでも障害者支援活動をスタートしました。
ルワンダに平和は戻ってきています。しかし障害者たちは、まだ不自由な生活を強いられています。障害者の生活を改善するために、これからもワンラブの活動は続いていきます。
ホームページを見てくださった皆さま、ルワンダとブルンジの障害者が信頼を取り戻し、社会に復帰できるように、力を貸してください。よろしくお願いします。

ワンラブ
ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクト
ガテラ・ルダシングワ・エマニュエル
ルダシングワ(吉田)真美

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