Mulindi Japan One Love Project

◆沿革
1991年5月 ガテラ、日本を訪れた際に、自分の装具を新調。日本の義肢装具製作技術に感激し、ルワンダにその技術を伝えたいと考える。訪れた義肢製作所から、中古の義足を数本寄付される。
1993年8月 ガテラ、日本からもらった義足を手に、ウガンダとの国境に近い村―ムリンディ(ルワンダ愛国戦線Rwanda Patriotic Front 通称RPF の拠点があった)―で現在の大統領であるポール・カガメ氏を含む、たくさんのルワンダ人を前に、「紛争が終わったら、障害者を支援する活動を行いたい。万一、戦っているみんなが足を失っても、私たちが必ず、第二の足を作るので、心配しないで戦ってください」とスピーチをする。
1994年4月 ルワンダ大虐殺、勃発。
1994年7月 ルワンダ大虐殺、終結。
1994年8月 ガテラ、避難していたケニアから、ルワンダへ戻る。
1995年 ガテラ、真美、NGO を設立するために、ルワンダ政府と交渉をすると共に、活動を行う場所を探す。

1996年 ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクト設立。ルワンダ法務省より、NGO の承認を受ける。
1997年4月 ルワンダ政府より、活動を進めるため、約1ヘクタール半の土地(キガリ市キミュルラ地区)を譲り受ける
1997年7月 ルワンダの首都キガリ市(ニャミランボ地区)に、仮の義肢製作所を開所。右は、当時のニャミランボの作業所。
ガテラ・真美・義肢装具士2名でスタートする。
最初に訪れた障害者は、トラック運転中に、地雷を踏んで、両足を失った男性。
1997年12月
レンガ造りの写真
仮の義肢製作所で義肢製作をしながら、政府から譲り受けた土地で工事を始める。最初は建物を作るための煉瓦造りから。仮の義肢製作所で、義肢装具士の育成を開始。
右は、レンガ造りの写真、中央のオーバーオールはガテラ
1999年12月 ルワンダで初めての「障害者の日」式典を催す。式典では、障害者によるコンサート・運動会などが行われた。
2000年1月
新しいアトリエの写真
ニャミランボの義肢製作所から、建設を進めていたキミュルラの義肢製作所へ移転。新しい義肢製作所で活動を続ける。
右は、新しいアトリエの写真
2000年9月
修了証書を渡している写真
新しい義肢製作所の開所式。トレーニングをしていた義肢装具士たちに修了証書を渡す。


2000年10月 義肢装具士として働いている男性が、ルワンダ初のパラリンピック選手として、シドニー・パラリンピックに出場。
2000年12月 障害者支援活動資金を生み出すための、レストラン・ゲストハウスをオープン。
2002年2月
巡回診療の写真
地方に住む障害者に義肢装具を提供するための巡回診療を開始。
右は、巡回診療の写真
2004年8月 義肢装具士1名を日本で技術トレーニングを行う(7ヶ月間)
2005年3月
愛知万博の写真
日本で開催された愛・地球博―EXPO 2005―に参加(6ヶ月間)。ルワンダで作った義肢装具・パネルなどを展示。

右は、愛知万博の写真
2005年8月 義肢装具士1名を日本で技術トレーニングを行う(7ヶ月間)
2006年6月 ワンラブ・プロジェクト10周年記念式典を開催。
2006年8月
Peace Boatの写真
平和について考えながら、世界一周をする船―PEACE BOAT―に乗船。インドに寄港し、平和のスピーチを行う。
義肢装具士1名を日本で技術トレーニングを行う(7ヶ月間)。
右は、Peace Boatの写真
2006年12月 隣国ブルンジに義肢製作所を開くため、ブルンジ政府と交渉。NGO として承認される。
2007年5月 ブルンジにオフィスを開くための準備。
2007年8月 義肢装具士1名を日本で技術トレーニングを行う(7ヶ月間)。初めての女性義肢装具士のトレーニングとなる。
2007年9月 ブルンジに義肢製作所をオープン。
2007年11月 静岡で開催された国際アビリンピック大会に参加。ルワンダの障害を持つ女性が「刺繍」の競技に出場。
ブルンジで巡回診療を開始。
2009年2月 ブルンジで職業訓練を開始。
2009年8月 義肢装具士1名を日本で技術トレーニングを行う(7ヶ月間)。
2011年 ガテラの発明したオーディオドラムがルワンダで実用新案の認証を受ける。
2011年8月 義肢装具士1名を日本で技術トレーニングを行う(7ヶ月間)。
2011年9月 韓国で開催された国際アビリンピック大会に参加。義肢ソケット製作・洋裁・絵画の競技に出場。

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◆ガテラと真美とワンラブのプロフィール
◆ワンラブ・プロジェクトができるまで(挨拶)
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